ゴルフクラブ試打日記。          

私のアルバイト経験

今日は、いつもとちょっと内容を変えて、私がこれまで経験したいろいろなアルバイトについて書かせていただきたいと思います。
アルバイトといえば、お金を稼ぐのが目的ですが、私はそれ以外にも『人生経験』を積みたいという目的を持ってアルバイトをしました。
若いうちにいろいろな経験を積んでおきたい・・・。今できることはたくさんチャレンジしておきたい・・・。という思いが強くありました。
社会人になって結婚すれば、やりたいと思ってもできないことが多くなります。
それを自分なりに理解していたのか、今のうちに出来ることは何でもやってやろうという思いが常にありました。
新聞配達
生まれて初めてのアルバイトは新聞配達でした。
朝の3時半に起きて、新聞販売店に行き、自分が配達する量を受け取って配達していました。
この新聞配達は自分から始めてみようと思ったのではなく、クラスメートからの誘いでした。
当時中学一年生で13歳だった私は、クラスメートである親友から、「一緒に新聞配達をやってみないか?」と誘われ、私は二つ返事で了解し、もう一人の友人を加え、仲の良い三人で始めることにしました。
今は中学生がアルバイトをするのは、おそらく厳しいと思いますが、昔はまだそれほど規制が厳しくない時代でした。
両親の承諾と、通っている中学校の校長先生の許可があればできました。
私たち3人は校長室に行って、事情を説明し、すぐに許可がおりました。
むしろ「偉いぞ、頑張れ!」といった感じで、背中を押していただきました。
とても理解のある、大らかな校長先生でした。
柔道の有段者で、背広を着ているよりも柔道着を着ているほうがカッコいい先生でした。
新聞配達
新聞配達というとTVやマンガなどの影響なのか、昔から早朝走って行うというイメージがありますが、私は自分の自転車の荷台に新聞を積んで配達していましたし、実際のところ、走って新聞を配達している人をこれまで見たことがありません。
新聞配達を始めたときは40件の家に配達するのが私に与えられた仕事でした。
販売店の社長さんが、最初からあまり無理をさせないよう、配慮していただいていたのだと思います。
一口に新聞といっても配る家によって配達するものが違っていて、『朝夕の統合版』のようなものもあれば、スポーツ新聞や囲碁将棋・釣りの新聞など様々でした。
午前五時までに配達を終えないと、その家から販売店に苦情の電話が入るということもあり、私は遅れないように必死でした。
住宅が密集した都会ならば、まとめて配りやすくなるというメリットもありますが、覚えづらいというデメリットもあります。
しかし、私が配達していた地域は田舎で、家と家が結構離れていて覚えやすかったので、すぐに40件を頭に入れることができました。
田んぼと田んぼの間に家がある・・・。といった感じの、のどかな風景に溶け込みながら新聞を届けていました。
田舎なので道が狭い山道もあったのですが、そこで一度だけ私の自転車の前をイタチが横切ったことがあります。
また、何も無い家ならばまだいいですが、犬を飼っている家も多く、吠えられることもありましたが、家によって吠える犬と吠えずに尻尾を振る犬がいるので、いつも不思議だな・・・。と思っていました。
新聞配達 原付
私のエリアは田舎で、坂道が多くてアップダウンがきつく、バイク(カブ)で配っている人が羨ましくてなりませんでした。
私はいつもハァハァと息を切らせながら坂道を上っていたのですが、大人の人はバイクで楽に駆け上がっていて、
「早く大人になってバイクに乗りたい・・・。」
と羨ましく思ったのを今でもはっきりと覚えています。
朝早く起きるのが辛いとか、暑い寒いということではなく、バイクに乗れるということがとても羨ましかったです。
自転車で新聞配達
しかし当時の私は、まだ13歳の中学生です。
免許はとれないですし、当然バイクも持っていません。
なので、自分の自転車に積んで決められたエリアを回るしかありませんでした。
しかし、自転車があるだけまだマシだと思いましたし、もし自転車が無ければ走って配達しなければならないので、それを考えると、まだ恵まれているな・・・。と思いました。
気候が良くて晴れた日ならば配りやすいですが、そうでないことも多いです。
雨の日の配達は、自分が合羽を着るのはもちろん、新聞が塗れないようにひとつひとつにビニールのカバーをかけなければなりません。
新聞
本来ならば私自身が自分の配る新聞にカバーをかけなければならなかったですし、他の配達員の方はそうしていたのですが、私の分は販売店の方があらかじめかけてくださっていました。
いつも私はその優しさに甘えていて、後から思うと感謝とともに申し訳なかったな・・・。と思います。
天気の良い夏の早朝は、とても涼しく気分爽快です。
澄んだ空気を吸いながら、ルンルン気分で配達していました。
しかし、秋から冬にかけて朝は寒さが厳しくなります。
『放射冷却』という言葉が浮かびますが、そのときはまだそんな知識はありません。
冬の過酷さは尋常でありませんでした。
身を切るような寒さなので、私はいつもTシャツなどを重ね着し、最高10枚重ねたこともありました。
今ならば優れたウィンドブレーカーやユニクロのヒートテックなどがあるので、そこまで重ね着しないでいいと思いますが、当時はまだ無かったので、とにかくあるものを重ね着するしか、寒さに対抗する手段はありませんでした。
雪が降る中配達することもありましたし、真っ暗な中、道路が凍って坂道のカーブで転倒したこともありました。
そのときにも、まずは自分のことよりも、とにかく新聞を濡らさない・汚さないという意識が働いて新聞をかばいながら転倒しました。
私は配達する件数が少なかったので、まだいいですが、100件以上配る人はたくさんいて、もっと大変だな・・・。と思ったことをよく覚えています。
年末の配達はとても大変でした。
新聞自体の厚みも違いますし、広告がたくさんあるので、配る量が何倍にも増え、それを何とか自転車に積み込んで、配達しました。
ペダルの重さも増えましたが、『今日だけの我慢』でした。
自動販売機
自分が担当する最後の家を配り終えた先には一台の自動販売機があり、そこで私はいつもピーチネクターを買って喉を潤しました。
今日も配達を終えることができた・・・。という、安堵感と達成感を味わえる瞬間でした。
新聞配達は自分一人で行う仕事ですが、そこに孤独感は無く、配り終えた後の喜びがありました。
季節によってはまだ暗かったですし、朝日を浴びながら飲むこともありましたし、冬の日は配り始める頃は寒くても、配り終えたときにはいつも汗をかきながら、白い息を吐いていました。
まだ慣れない頃は全て配り終えるのが一時間以上掛かってしまいましたが、慣れてくるとすごく早くなりました。
デジタル腕時計
デジタルの腕時計のストップウォッチを押して、今日は一時間を切れたとか、今日は最高タイムが出た・・・。など半分ゲーム感覚で配っていました。
何か楽しいところを見つけないと、心が折れそうになることもあったからです。
配達を終えて自宅に帰り、朝食を済ませ学校に行くという日々を過ごしていました。
周りの級友とは違い、自分はお金を稼いでいるんだ・・・。という、どこか『ちょっぴり大人になった感』のようなものもあったかもしれません。
背伸びをしている自分がいました。
しかし肝心の学業のほうはおろそかで、テストの成績も冴えないので、落ち込む日もありました。
配り始めて一月後に初めての給料をもらいました。
今はアルバイトも銀行振り込みが多いと思いますが、私は一枚の茶封筒で手渡され、ひとりになったときに中身をみると5000円ちょっとでした。
一月頑張って、5000円ちょっとしかもらえないのか・・・。と世間の厳しさといいますか、お金を稼ぐということがどれだけ大変なことなのかと骨身にしみました。
配る家が次第に増えていき、給料もあがり嬉しく思いましたが、それでも今思うと厳しかったように思います。
しかし、お金目的というよりは『人生経験を積む』ということが目的だったので、あまり気にせず、約束の一年が経って、私は新聞配達のアルバイトを終えました。
私のようなものを雇ってくださった販売店の方には、今も感謝しています。
引っ越し
それから成長し、引っ越しのアルバイトをちょっとだけやったことがあります。
本格的というものではなく、人手が足りないときにヘルプ的な感じでやっていました。
普通の一軒家ならいいですが、エレベーターのない公団住宅などはとても大変だった記憶があります。
しかし、重い荷物を積極的に運び、それをトレーニング代わりにしていました。
自分と全く同じ体力がある人がもうひとりいたら、普通の家の家財道具の全ては運べるな・・・。と思えるほど自信を持って仕事をしていました。
大きな冷蔵庫はもちろん、タンスやピアノなども運びました。
まだ話しは続くのですが長くなるので、この続きは後日、また日を改めて書かせていただきたいと思います。